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アート田中一村


1977年9月12日、彼は奄美大島・名瀬市郊外に借りていた粗末な家で事切れているところを発見された。
前日、ひとり暮らしの夕食の準備をしている時に、心不全で倒れたらしい。床には刻んだ野菜の入ったボールがころがっていたという。生涯独身だった一村の、誰にも看取られない最期だった。享年六十九歳。




1980年3月、NHKディレクターの松元邦暉は、取材の途中に立ち寄った奄美大島・名瀬市のダイバーの家で、壁に無造作に貼られた一枚の魚の素描に目を留めた。迫力ある筆致に心を動かされた松元は描き手の名を尋ねた。

「田中一村という画家のです」 

大島紬の染色工をしながら日本画を描き続け、十数点の奄美の絵を遺して3年前になくなった画家だという。




日本美術界の奇跡とまで言われた日本画家・田中一村は、こうして死の3年後に再び見い出され、松元の渾身の取材の後1984年にNHK教育テレビの「日曜美術館」で紹介されて、世に知られるようになった。


その後、1995〜6年にかけて初の大規模な回顧展が全国で開催され、私もそこで初めて彼の絵の実物を見て、その画力に圧倒された。当時会場に何時間いただろう。その時買い損なった回顧展のカタログをこの度ようやく入手したので記念にキーワード化。




田中一村は明治四十一年、栃木の生まれ。七歳の時に児童画で天皇賞を受賞。彫刻家の父は幼い孝(本名)の画才を見抜き、「米邨」という画号を与える。彼はその後も絵の道を歩み続け、十七歳にして「全国美術家名鑑」に名を連ねる。ちなみに日本画・洋画を通じて十代で名鑑に名前があるのは彼だけであった。翌年には東京美術学校(今の東京芸大)に入学。同期には東山魁夷、加藤栄三らがいた。しかし一村は僅か三ヶ月で一身上の都合で退学。その後孤高の道を進み始める。




「一村さんは絵の事となるとまるで別人になりました。」と彼を知る人々は言った。絵の事で議論が始まると只では済まず、激論の末、「絶交」という言葉が投げつけられて終わる事もしばしばあったという。若き日の彼にはその才を買って援助を惜しまぬ理解者も多かったが、彼は、そうした人々に絵を渡す時すら、割り切れぬ思いを抱いていたらしい。




「私は二十三歳のとき、自分の将来行くべき道をはっきり自覚し、その本道と信ずる絵をかいて支持する皆様に見せましたところ、一人の賛成者
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投稿者 CLASHの空間
カテゴリー アート人名・団体名

04.7.5更新


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